ブックタイトル森林のたより 801号 2020年06月

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概要

森林のたより 801号 2020年06月

-働いて働いた、ハタラキアリ-【第347回】自然学総合研究所野平照雄●Teruo Nohira母が死亡した。99歳。それもあと2か月で100歳。大往生という言葉がふさわしい天国への旅立ちであった。その日は令和2年2月22日。日課としている散歩をしている時、電話が鳴った。家内からだった。「お母さんが危ない。すぐ帰ってきて」。母が暮らしている老人ホームへ駆けつけた。すでに母は死亡し、ベッドの上に置かれていた。頬は落ち込み、口はあいたまま。それに顔に血色がなくなっていた。これが母かと悲しくなった。職員の話では、おやつを口に入れたら、前のめりになって息を引き取ったという。本当に安らかな最期だったと言われた。この言葉に救われた。母の死は悲しいが、寝込んで苦しむことなく天国へ向かうことができたからである。その後、母は葬儀会場へ。すでに孫娘と3人のひ孫たちが来ていた。変わり果てた母を見て「これがひいおばあちゃん」と口にして、泣き始めた。孫たちがこれだけ悲しむ。ひいおばあちゃんを好きだったのだなーと、私は胸が熱くなった。母は孫たちに「お前たち、会いに来てくれたのかよー。うれしいわい」と飛騨弁で話しかけている姿が目に浮かんできた。その後、母の顔はきれいにされ、白い布でおおわれ布団の上に置かれた。末っ子のちびちゃんは、ひいおばあちゃんが奇麗になったと言って「ひいおばあちゃん、ひいおばあちゃん」と大きな声で呼んでいた。この姿が印象的だった。××××お通夜の時、住職は「99歳まで生きて、苦しまずに死ねたのは、生前の行いがよかったからだ」と言われた。私は住職の決まり言葉だと、思いつつも嬉しかった。同時に、どんな生き方をしてきたのか、母の人生を振り返ってみた。しかし、悲しいかな、小さい頃の記憶は断片的に残っているだけ。しかも、自分と母との出来事も定かでないのである。歳とともに記憶が薄れていく自分が悲しくなった。母は飛騨の山奥で生まれ、学校を卒業すると岐阜の工場で働き、高山市のバス会社で修理をしていた父と結婚したと聞いている。しかし、生活は苦しく、農作業や日雇い、夜は編み物の内職などで一日中働いていた。雨漏りのする小さな家に9人が住んでいたこと、大晦日の夕食はサンマだったことをかすかに覚えている。××××生活に追われていたせいか、母は私に勉強せよなどと言ったことがなかった。大きな声で怒ることなく、好きなことをさせてくれた。現在ならば母親失格であろう。とにかく働いた。苦しい日々だっただろう。それでも誰にも気さくに話しかけ、すぐ笑い、時には涙を出すこともあった。それと人の心を傷つけるようなことは口にしなかった。今となると、素晴らしい母だった思う。母の人生を振り返ると、ここまでが第一幕。第二幕は家が古くなったので建て替えることになったこと。これが始まりである。その時、民芸店を開いたらという話が出た。当時は高度成長期で観光客が多かったことと、家が高山駅に近かったからである。口下手な父は大反対。しかし、母は自分がやると、すぐに決断。これが正解。母の性格が客商売にむいていたのである。どの客にも、笑顔で気さくに話しかけるので、客は増えていった。ある日、私が帰省しているとき外国人の客数人が来た。母は普段話している飛騨弁でジェスチャーを交えて対応した。すると外国人は笑顔で「OK」と母と握手し、たくさんのお土産を購入した。私は唖然とした。母は観光客と話すのが本当に楽しそうだった。生き生きしていた。これが母の生きがい。そんな気がした。友達も増え旅行へも誘われるようになった。そのうちにハワイや沖縄などへも出かけた。前の生活とは大違いであった。この間、父は好きな盆栽管理。毎日が楽しそうであった。この生活が40年以上続いた。しかし、二人とも歳を重ね、90近くになった時、父が死亡。これが第三幕の始まり。気落ちした母は店を続けたが、病院通いが多くなった。一人暮らしは無理だと、各務原市の自宅で一緒に暮らすことにした。そして終幕を迎えることになるのである。××××こちらには知らない人ばかりだ。寂しいだろうと、母が気の毒に思えてきた。しかし、余計な心配だった。母は近所の人に自分から話しかけ、何人も友達ができた。デイサービスなどの介護施設でも皆を笑わせるので人気者だった。それが認知症の症状。それに車椅子生活。家での介護が大変になってきた。老人ホームへ預けた。認知症は日に日に進み、息子の私さえ分からなくなった。これが私の母。信じられなかった。生前、母は「ぽっくり死にたい。寝込むと皆に迷惑をかけるでなー」と何回も言っていた。この言葉どおり母は苦しむことなく眠るように亡くなった。私は悲しかったが「これでよかったのだ」思った。現在、母の遺骨は仏壇の前、その横には写真が飾ってある。死を迎える少し前に写したものだ。少し笑みを浮かべている。自分の人生を無事終えることができた喜びのように見えた。働いて働いて、働き続けた母。その姿を思い浮かべているうちに、光り輝く大きな大きな働きアリとなった。MORINOTAYORI 10